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2019年12月10日(火)
2017 ブラジル旅行記(日系家族を訪ねて)
今回の旅は、日本が歩んで来た歴史の一面を探訪する旅であり、日本の裏側に位置するサンパウロで開かれる「ブラジル力行会100周年」記念式典参加の為である。ブラジルは遥か遠方の国でリオのカーニバル、南米大陸を東流するアマゾン川と密林、その流域で生息する怪魚と生物、併存する地元原住民、昨年行われたリオのオリンピック等・・・この程度の認識しかなかったのですが、今回訪伯するにあたり、改めてブラジルを見詰め直すと、日本との係りは永く深い。明治の末期(1908年)に最初の移民船笠戸丸が海を渡って以降、約24万人強の日本人が夢を抱いてこの大陸に降り立ち、その一部の人達はこの地に根付き日本人の心と精神を持ったブラジル人としてブラジル社会発展の一翼を担っている。
今私が最も興味が有るのは”人“、”人間を見る事“である。其々の時代背景が有っての移民であったと思うが、国が援助・奨励した国策の一つであり各省庁の直轄事業から「力行会」の様な民間団体を含めた多様な海外移住方法が有った。直近では「若者が金の卵と持て囃された」我々団塊の世代の前の世代まで横浜、神戸から船に乗り40数日間かけてロサンゼルスを経由してサントスの海岸へ、それからブラジル各地の研修所へ散って行った。当時20歳前後の若者達が”何を想い、どんな夢を求めて“ブラジルの地を踏んだのか???????
初めて見る大陸、会った事もない人との出会いに胸を膨らましていると、26時間強の空の旅もけして長くは感じなかった。
15日18:30に成田を発ち途中ダラスで乗継ぎグアルーリヨス空港に降りたのは16日の朝である。冬の曇り空で在るが暑くも寒くも無く半袖で丁度良い、その足でアルモニア学園を訪問した。当初は日本人の子供達が学校へ通う為の尞として発足したが、現在は保育園から高校までの一貫校として日本文化、考え方を中心に教えている。寮生200人程、学生数400人のうち日系人は20%位である。アルモニア(和)とは“なごやか”と云う意味の様である。この様な形で日本の伝統・文化が遥か遠いこのブラジルの地で継承・培養されて居る事に驚きを感じました。次にサンパウロ市内に在る「力行会」の事務所に立ち寄り、日系二世・三世の奥さん達が持ち寄った手作りの「おはぎ」「おにぎり」等に舌ずつみを打ちながら、旧交を確かめ合っている姿を傍から見ている私にとっては、日本で昔から見慣れた田舎の風景であった。
宿泊はリベラーダの東洋人街に在るニッケイパレスホテルである。この町はサンパウロの中でも日系人が多い街で「寿司屋」「居酒屋」「焼鳥屋」から日本人向けのお土産屋が有り馴染み易い街である。又、町の中心に大きな赤い鳥居が立っているのが印象的であった。
翌日の「ブラジル力行会100周年記念式典」は日本文化福祉協会で行われ、日本総領事を始め多数の関係者をお迎えして厳粛に行われた。両国の国歌の次に「力行奮闘の歌」が歌われた。チョット軍国調の懐かしいメロデーであるが、おそらく移民された方々は、この歌で祖国を想い、故郷を偲びながら自らを鼓舞・奮い立たせた青春の応援歌なんだと思うと唯々頭が下がるのみでした。ですが、若い人達が歌えなく成ってきて居るのも事実で時代の流れを感じました。公式の参加人数は200人位と聞いて居たが宴席の会場を見ると、その倍は居る様な感じがした。同じ日本、日系人の集まりで有るが容姿の雰囲気、いでたち等が多様で有る事に戸惑いを感じたのも事実で有る。
翌日から私と日本力行海外協会の久保田怜男理事長さんを除いたメンバーは戦前から入植し開拓者の最も多いポンペイア、アリアンサを中心にした農場等の関係施設への訪問に出かけた。私達は久保田さんと同じ頃に移民してきた三家族を訪れ、更に日本人が日本人の為に設立した障害者施設、老人介護施設、病院、業界団体等をまわった。
最初に訪問したお宅はアチバイヤ-に住む佐藤平八さん宅、サンパウロから高速道路を走らせ1時間程の町である。驚いたのは車から見える小高い丘の斜面に燃えた跡が散見される。野焼の様に成って居るので聞いてみると山火事の跡との事、まだ大きな木の燃えカスが燻っているのに誰も気にしない。今は雨が少なく乾燥しているのでよくある光景との事である。又車窓から目るスラム街の多さにビックリです!!!茶色のレンガ色の荒廃した建物が建ちつくしている。ブラジルの現実を見せ付けられた想いがしました。
アチバイヤ-は小高い丘の上に出来た町で有る。丘の頂上に教会があり周辺に家々が連なっている斜面の多いヨーロッパ調の雰囲気を感じさせる街で有る。佐藤さんは花卉を中心にした農場を経営し、家の近くではパステルのお店を娘さんと開いているとのことでした。当日は町で「花祭り」が開かれており、日系人の経営する農園がフェステバルの会場で日本の風景を模写した飾り付けが成されていた。ブラジル人は花が好きなのが大勢の人達で賑わっていた。
次に訪れたのは川瀬周克さんのお宅である。彼は東京で働いていたが行き詰まり大きな夢を持って農業移民としてブラジルに渡って来た。本当は牧場経営が夢で有ったが、思うに任せずアマゾンに出稼ぎに行つたりと苦労の連続で、何度日本に帰ろうと思ったが知れないが、奥さんに“此処で芽がでない者が日本に帰って成功する訳がないと諭され”葛藤していたが、日本に一時帰国した際に芝の俗名“龍のひげ”に出会いブラジルで栽培する事を思いつき、20年目にしてようやく努力が実を結び広大な農園を手に入れた。現在息子夫婦、孫と一緒に親子三代、農園経営で生計をたてて幸せに暮らしている。
土屋秀人さんは小諸市、奥さん(かよ子)は祢津の出身の方で外務省の商業実習生として派遣され、4年間の予定で有ったがブラジルが肌に合い居ついてしまった様である。ソロバンと簿記が得意である事から色々な企業から誘いが有り最後は東京銀行のサンパウロ支店長を務めて退職、その時の経験、人脈からプロポリス等の会社を設立して輸出販売業等を行いブラジルに根を下ろした生活をしている。
一言でブラジル移民と云っても人それぞれで時代に翻弄されながらも「ブラジル人としての基礎を築いた人、行方が分からない人、日本に帰った人等」多様である。毎月舟航した一隻に力行会員18人位が乗船した内の1/5~1/6位の確率でしか基盤が築けていない様である、非常に厳しい環境であった事が伺える。又彼らは日本の事を実に良く知っている。津波から原発事故、北朝鮮問題まで詳しく知っており、逆に日本は大丈夫かと質問される程で危機管理能力は高く、ある意味ノウ天気な我々日本人の方が恥ずかしい。
当初予定していたスケジュールも終了して帰国日にはお見送りの人が、ホテル前、空港へと足を運んでくれた。帰航のシートに身体を横たえて、この数日間を回想するに我々日本人が何処かに置き忘れてきた“良き日本”に接する事が出来た旅であった気がしました。眼下に広がるサンパウロの街が遠く雲に隠れて行く中で、彼らに“日本ヨ・・・日本たれ!!!日本人たれ!!!”と叱咤・激励されていると感じたのは私だけで無いと思います。
<文責:西入 悦雄>